開会式の酷評を見ながら思ったこと~夏休みの課題~

タイトルだけあげて長期間放置してしまった笑
記事を書くモチベが下がってきたが、書いとく。

開会式、まぁまぁ酷評されていたわけなんですが、ざっくりと酷評の内容をみると(1)日本文化への理解と、(2)政治的な話に分かれる。(2)は特に深堀できそうにないので、無視。酷評を見ながら我が振りを直さねばと思ったのは(1)の方である。
日本文化への理解、私も無いよ。正直な話、文化を理解している(と思っている)人って、「あれがこうだ」だのなんだのと、まぁ鬱陶しい人が多いわけですが。そう言う話じゃなくて、各土地土地に根付く風土風習を基盤にして、その土地にいる存在として理にかなったことを喋れる喋れないって言うところで、私は喋れないから問題だと考えるわけ。
私は、「文化を守る」的な言葉に対して、やれもてはやして、象牙の塔のように扱うイメージを抱いてしまう。と言うか、そういう形での「文化継承」が当たり前になりすぎているのも、また事実。生活の一部分、ファッションでも骨董品でも無い文化を忘れた、悲しい。例を挙げると、フランスのワイン産地の農家たちにおけるワインと、ワイン愛好家の生活におけるワインは違う(だろう、きっと。ワインそんなに知らんけど)と言う話。ワインを生産し、生活の嗜好品の一部として当たり前に享受する環境におけるワインのイメージや扱い方、生活の中での立ち位置は、ワイン愛好家が評価し、愛でて扱う生活の中の立ち位置と違う(はず)。そんな感じで、日本人である私は、もっと言うと日本国内のある特定の場所に住む私は、古いワイン農家がワインを扱うように特定の場所の人間をやらねばならないなぁ。と思ったと言う話である。

そういう訳でひとまず日本文化論勉強しまっす。哲学する〜シリーズは3冊とも読む。というより1冊目はすでに読んでるから、残り2冊も読んでしまおう。そっから先、折口とか日本語論とかに入っていくか、ちゃんと府の生活スタイルを洗い直すかは読んでから決めます。
これと追加して、資本論関係も夏休み明けまでに読んでしまいたい。読まなきゃいけないのは、マルクス3作、資本論を読む、資本主義の~、物象化論と〜(リベンジ)。今のペースなら盆までに資本論は第三巻まで読了するから、資本論を読むのマシュレーとランシエール、要項を8月末までに。9月前中期で剰余価値学説史、末に物象化論、ボル・・・多分10月入るが、やれるとこまで。多分ここまで読んだら、真っ当なことは言えるようになっているはず。

そんなこんなでこの夏は人文社会系をやれるとこまでやってみます。自分の理系専門分野で就職が決まった訳ですが、技術のことだけ考えてたらいいなんて論外、真っ当な文化的教養と、その中での技術の立ち位置と理解して社会に出たいなと思ったり思わなかったり。