生産性のない人が嫌い

ご無沙汰しております。丸々一週間ブログ更新せずでした。
ひとまずこの記事で今週を振り返って思ったことを書き連ねようかと思います。

 

さてさて、タイトルの件ですが、嫌いなんです。
おそらくこんなことを書くと道徳観念強めの方の批判の的になることでしょう。
彼らの批判としては、「生産するだけが人生じゃない、のんびり行こう」とか「人には人のペースがあるんです!」的な感じになると思う。
これ正しい。非常に真っ当なご意見です。ただ気持ち悪い、気持ち悪いけど否定できないから嫌やなぁ〜って思ってた。
こういう人たちの何が嫌かって、口ではこんなことをいいながら言語コードが産業社会の中に止まったままだから。「生産性」というワードに対して産業社会的なoutput/inputの公式を連想して、被害者意識全開の批判をしているにすぎないから。
私がタイトルで使った「生産性」という言葉。これは「私(もしくは誰か)の目的に対する貢献度」という意味で使っている。
つまりタイトルの文言を正しく和文和訳するとこうだ。「私の意思を慮った(もしくは慮ろうとした)上で私に新しい可能条件を提示しようとするということができない人は嫌いだ(というのは言い過ぎだけど、せめてそうする気だけでもあって欲しい)。それができないとしても、せめて笑を取ろうとしてくれ。このひとときが楽しければ万事オッケー」。
ここまで説明すると批判派の方も多少は納得していただけるのではないだろうか。しかし、人権的・ロハス的な方々の大半(は流石に言い過ぎ?)はこの説明をしても僕の満足のいく対応をしてくれそうな気がしない。なぜなら彼らには彼らの中に「幸せの正解」があって、それを前提に人の意思を考慮することや、それを広めることが利他性となるから(ここまでくると完全にやばい宗教)
産業社会人間が産業社会的共同幻想から生まれた意思をロハスを好む人に押し付け謗られるように、彼らもまた彼らなりの共同幻想から生まれた意思を押し付け、宗教と揶揄されるのだ。どっち道程度が知れる。仏教も面白かったけど、こういう浅さに飛んでいくから馴染みきれなかった節はある。
ここまで考察した上でもう一回タイトルを理解し直してみると、「一対一の会話において別の何か大きなものを持ってくる奴は嫌い、道徳感でも社会常識でもなく、俺をみろよ。そして俺にはお前を見せろ」。道徳観や社会常識の上でしゃべることは確かに心地よい。自分は真っ当であるから。でもそれオ○ニーじゃん!俺はお前のオ○ホじゃないよ。
そういえば以前、辰巳に「ホリさんって自分のない人嫌いですよね」って言われた。そのときは「確かに!」って思ったけど、今考えると「その人の生きてきた人間関係を土台とした個人の意思がない人が嫌い」なんやろうな。そいつの意思を考えて、有益な話を考えることも、その人の前提から逸れて笑いに走ることもできないから。なんならその人も自分の中にないもんだから、俺のそれを考えようなんて思わない可能性が高い。
こんなことを考えながらふと最近の自分を振り返ると、まぁ生産性のないこと。何かわからぬ気持ちの悪さを前にいろんな人にいろんなこと言ってきたけど、まぁ頑張ってシコってただけやったなと思う。
もう一度自分にとっての生産性を考え直すと、地域住民の実際生活を維持・改善すること(これも社会を前提にすると奴隷化する)が第一。もう少し具体的にした上で芯を持って社会に出ていかないと、社会に主体化させられる気がする