自然を前提に生きる人と自然を目的に生きる人(草案)

日常日記とは別の話。

最近SDGsとかうるさいよく耳にしますね。
 この手のエコロジー的話に関して、馬が合うタイプとそうじゃないタイプの人がいるので、個人的な好き嫌いラインをはっきりさせておこうかと思います。

 そのラインとしては、表題の通り「自然を前提に生きている」のか「自然を目的に生きている」のかというところだと考えております。

 自然を前提に生きる方々は単純です。ただ生きています。その中で、自然保護派の言う「自然破壊」につながるようなことはしません。何故なら面倒だから。理にかなわないから。ここを「自然を愛している」とか「自然と共生している」とすると、話がずれます。そういう評価に納得するためには、「自然を大切にしなければならない」という倫理観や正義感を持った位置に立たないといけないから。彼らと話す時、そんな倫理観は感じない。やってることを見ても「そりゃそうや」か「賢いなぁ」としか感じない。「(倫理的に)素晴らしい人やな」とは感じない。感じさせてくれない。だから馬が合う。話していて胃酸が出るような辛さはない。

 自然を目的に生きる人はだいたい苦手です。自然保護が目的でも、自然から受ける享楽が目的でも(前提に生きる人もこういうところはあるが、ヒステリックに固執したりする人は少ないと思う)。自然を前提に生きる人は行動に納得できるし楽しい。自然の上に享楽を開くから。例えるなら、関節が動く範囲で楽しく生きている。自然を目的とすると、そこがイデオロギー化して我々を規定する。話している時に感じる向こうからのそういった規定は、こっちが話す時にも影響してくる。窮屈なのだ。いわゆるパストラール的に振る舞いを規定してくる。その上厄介なのは、彼らは自然から受ける開放感からか、自らの考えや行動を「自由である」としたがる。もちろん都会のビル群に囲まれて生きるより、はるかに自由であることには納得する。それでも、自然を前提とした爺さん婆さんを知っている身としては、随分と窮屈な人たちなのだ。そして、田舎で生きる老人たちを、自然を目的とした前提で持って、その窮屈さに押し込める考え方には苛立ちしか感じないのである。

 以上のように人を分類してみたが、これは別に「この世には二種類の人間がいる」的な話ではなく、考え方の方向性みたいな話。大体みんな混ざっている。どっちの度合いが強いかっていう話。